はじめに
みなさん、「夏への扉」という作品をご存知でしょうか。アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインが1956年に発表したSF小説作品です。僕は小学生の頃から図書館に行っては星新一とハインラインを読んでいた少年だったので、この作品も大人になってからも文庫本を買って読んでいました。人によっては「本は読むけど海外SFは読んだことないな……」と思った方もいると思いますので、スタートとしてこの「夏への扉」はかなりおすすめです。他の作品よりだいぶソフトに抑えられてる感じがするので。
本作はジャンルとしては「タイムトラベルもの」であり、その中でも特に名作と言われています。実際めちゃくちゃ面白い。名作には間違いない。
あと、今回はかなり映画と原作「夏への扉」のネタバレを含んだ感想となっているので、原作をまだ読んでいない人はブラウザバックしてほしい。これは「原作をすでに読んでおり、その上で映画を見た人」の感想だ。同じ条件に当てはまる人は是非読んでほしい。
なお、この感想は面倒くさいオタクによって書かれている。内容に偏りがあったり、話があちこちに飛んでいたとしても許してほしい。ライブ感を感じてくれ。
映画「夏への扉」を見た感想
さて、この映画の情報を簡単に確認しておく。2021/6/25に公開された「夏への扉 キミのいる未来へ」は山﨑賢人が主演を務め、内容は「悲愴的な境遇に身を置かれながらもロボット開発者として活躍していた高倉宗一郎は、罠にかけられ大切な研究結果と製作したロボットを奪われてしまう。なんとか反撃をするために裏切った叔父と元経理の女に立ち向かったが返り討ちにされ、30年後の未来に冷凍睡眠によって飛ばされてしまう。そこでは唯一の家族である義理の妹も亡くなっていた。失意に飲まれる宗一郎だったが、未来で出会ったヒューマノイド《ピート》と共に奮闘し、義理の妹を救うため過去に再び戻る」という感じのものでした。
正直、僕は公開前からドキドキしていました。大好きだった「夏への扉」が初の映像化されること以上に、主演が山﨑賢人で、監督はラブストーリーが得意な三木孝浩監督なのだ。嫌な予感しかしない。海外SFというのは基本的に淡白で、日本文学と海外SFの「爽やかな読後感」にも若干の差があるのだ。なんというか、のどごしが違う。読後感の。
さらに言えば、「なぜ日本で映像化した!!!!!」というのがまず来ました。なんでだ。答えてくれ。なんで日本でやって、日本を舞台にして、原作の雰囲気を変えて、主演を山﨑賢人にしたんだ。何もかも完全に違う。違いすぎる。僕の中の米倉涼子も頭を抱えて「違いすぎる!!!!」と叫ぶだろう。そう、日本のスマホ料金が高すぎるのと同じくらい、「確実に違うものになる」というのは明白だったのだ。
しかし文句を言うのは見てからだろう。見ていない者が見ていないものに対して批判をするのは間違っている。なので、僕は公開日に見に行ってその日のうちに簡単に「しんどっ」という感想を書きました。しかし、Twitterで検索して他の方の感想を確認してみると、結構評判がいいのだ。わからない。そんなわけがないだろ。地元の映画館に行ったら公開日の最終上映だったのに僕含めて観客4人だったぞ。
いや、観客の数が映画の出来を決めるというわけでもない。ちゃんと見てみよう。そう思い、僕はTwitterのフォロワーさん(原作既読勢・映画未見)を誘って二人で「夏への扉」を見に行った。僕は二回目だが、Twitterで絶賛している人の感想を記憶し、もう一度新鮮な気持ちで見に行ってみた。
いや、やっぱり違う。
まず、「主人公が爽やかすぎる」のだ。山﨑賢人がめちゃくちゃ爽やかに演じている。他の映画だったらそれでいいと思うが、基本的に原作の「夏への扉」の主人公、ダン・デイヴィスはめちゃくちゃ嫌なやつなのだ。いちいち人の言うことにカチンとくるし、何か攻撃されればムッとしてすぐに言い返す、そういうやつだ。誰だこいつ。高倉宗一郎だった。違う人だったそういえば。
まだまだ言いたいことはある。ペース配分だ。映画という尺があるジャンルで作品を作っている以上難しい問題であることはわかっているつもりだが、それにしてもサクサクいきすぎている。主人公がトントン拍子で謎を解いていくので、感動が湧く時間が少ないのだ。感動しようとすると次のシーンにいき、謎を自分で考えようとしてもヒントが断片的で何もわからなかったり、だと思えばいきなり「全てわかった!」と説明しだし、「なるほどね〜〜〜〜〜〜」と思考停止のままうなずくことしか出来ない。
この辺はクソアニメの感想にも通じるところがあるが、僕がつまらないと感じる作品には基本的に「余裕」が無い。視聴者が「なぜだ……?」と考える暇がないのだ。自分で推理し、その答え合わせを見るのが楽しいというのに、それを考える暇も、解明された後の余韻ですら奪われてサクサクと物語が進んでいく。気が付いたら物語が終わっているので、作品を鑑賞中に「面白い」と感じる暇すらないまま終わるのだ。「あれ、なんだったんだ?」で終わるだけなので、結果的に「つまらないもの」として記憶に残ることになる。
これが別に興味のない作品のアニメだったらまだよかった。僕が幼少の頃から読み、大人になってまた読み返していたほど好きだった作品を映像化されてこれだったら許せない。面白いはずの原作が映像化され、「面白いと感じる隙も与えないタイプのもの」だった場合、憤怒の炎が燃えること必至だ。
仮に海外SFや「夏への扉」に興味を持ってくれた人が「へぇ!映画化されてるんだ!最初はそれから見てみようかな」と言って鑑賞後、「面白くなかったし別にいいかな」と言われるのは屈辱的だ。「違うんだよ……原作ではちゃんと面白くて……」とフラフラと原作の文庫本を片手に近づいたところで効果はない。映画で面白くなかったものをわざわざ小説で読もうという物好きはいない。そもそも小説は現代の人にとってはハードルが高いのだ。映像のエンタメが発展しつづけた結果、小説を読むことは「頭がいいと思われたい人の行動」と解釈されている。そういう事例をTwitterで見た。悲しいことこの上ないじゃないか。それが好きな小説でやられているならなおさらだ。
「ブレードランナー(電気羊はアンドロイドの夢を見るか?)」や「アイ・ロボット(我はロボット)」レベルの出来ならまだ僕は許せた。「映画も原作もあるから、好きな方からいきな」と自信を持って背中を押すことができただろう。しかし現実はこれだ。どうしたらいいんだ。僕は。
しかし、嫌なことばかりではなかった。結構映画自体の出来はいいのだ。原作とペース配分が違ったり、強調したい点が違うと感じたりしたところは素直にマイナス点だったが、「面白い」と感じる点もいくつかあったのだ。後述する「ピート」や、原田泰造の演技がめちゃくちゃにいい。優しいおじさん感のある演技で、本職が芸人とは思えないくらい上手い。原作だとヌーディストの夫妻の立ち位置だけど。
あと、これはマイナス点でありプラス要素なのだが、オリジナルの展開の中で原作では登場しなかったヒューマノイドロボット「ピート(藤木直人)」がでてくるのだ。これがなかなかいいキャラをしている。普通に登場人物として好きになっていた。単純に僕が「人間とロボのコンビ」が好きなだけかもしれないが。しかし、この存在のせいで原作の雰囲気は壊滅的になり、途中からに完全に別の映画を見ている気分になっていた。
共に見てくれていたフォロワーさんも「エンディングロールが流れてるとき、『原作:夏への扉 ロバート・A・ハインライン』って流れてきて『そういえばこれ夏への扉だった』って思った」と言っていました。僕もそう思いました。嫌な以心伝心だ。フォロワーさんも僕も、完全に別モンの映画として楽しんでいた。その「別モンの映画として楽しめていたこと」が何より悲しい。
中途半端に原作の原文を持ってきてナレーションで流していたところも腹立たしい。それで「っぽさ」を出そうとするな。こっちは夏への扉だと思って見てないんだぞ。現実に引き戻してくるな。邪魔だ。そういうことするならしまいまでやれ。
もうほぼ呪詛のようになってきたので、総評をして終わろうと思う。
総評:実写映画版「夏への扉」は、ハリウッド版のドラゴンボールと同じ要領で楽しめ。原作の方が確実に面白いので本当に純粋に楽しみたいなら原作読め。
これ以上僕の好きな作品がこんな映像化をされないことを祈る。これ以上僕の好きだったハインラインのイメージにペンキを塗りたくらないでくれ。
おわり